自殺

苦しみの時期

すべては周期的である。人間の辿る運命もまた、その個人性ゆえに、辛い時期とそうではない時期が繰り返される。この種の苦痛は個人的なものであり、克服は比較的容易である。瞑想をつづけることで、魂の意識の高みから、苦しんでいるのは単に個人だと言えるようになる。無関係の関係性が培われるのである。しかし、いま現在、ひどい苦痛に苛まれている人、自殺の瀬戸際で懊悩している人に対し、何を言いうるだろうか。確実なことは、時期は過ぎ去るということである。たとえそう思えなくても、理論上、同じ状態が続くことはない。

何の理論だろうか。それは人間というものに習熟するに比例して理解されるものである。ここに問題がある。弟子やイニシエートは「個人」を知っており、そのため興味がなく、個人的な苦痛に飲まれることもない。意識が精妙かつ純粋であるため、物事に対して透徹した目をもつことができる。それは理解の目である。歪曲したフォースに対する慈愛の目である。その目は裁かず、個人に抵抗させず、受容する。苦痛は目によって見られ、即時に幸福と喜びに変わる。

このように、個人の苦痛は容易に処理される。しかし、意識が純粋に個人的な段階において、この種の、個人的な苦痛に対する終焉のテクニックはまだ使用できない。自分自身の問題と苦しみが現実的であり、悪循環なことに、目が内にばかり向いてしまう。すべての弟子はこの段階をクリアしてきた。何も見えず、瘴気と暗闇にただ忍耐した時期もあり、むせび泣きに自己憐憫した時期、自殺した生涯もあっただろう。

個人の苦痛はいずれ通過されねばならず、いずれ克服されねばならない。克服した勝者には一般的な人々には想像もできない平和な意識状態が与えられるが、単にひとつの段階をのぼっただけであり、新たな課題と目標、そしてそれに伴う(今度は個人ではなく)包括的な苦痛に目が向かうようになる。テクニックは全体のために使われねばならず、世の中の惨状の背後の原因には圧倒されるほどのものがある。だから、個人的な苦痛から卒業する人々の総量が、新たなる参入がつねに待たれているのである。現状、物質界とアストラル界において無知と悪意のフォースが優勢なのは見ての通りである。

実際のところ、個人の苦痛とは、個人が自己の利己性に無知なため生じている、単なる自作のものである。だから、純粋に個人的なものなのである。こうした内的な問題は、瞑想によって理解に至るよりほかにない。瞑想もまた、リズムと周期があり、魂の刺激に強弱の時期がある。このような、個人の観点からすれば浮沈と見られうる状態を、ほとんどうんざりするほど経験してきた弟子たちは、何も見えない時期に対して、無視する能力を培うだろう。だからあまり嘆く必要はない。自分にあまり目を向けず、専門的にフォース同士を衝突させ続けず、外に目をむけることで、フォースはその正しい流れに喜びの役割を見い出す。簡単にいえば、思い悩むより、思い悩む人の助けになることをすべきである。

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