堕落

苦痛からの保護

これまで苦しみは個人的なものであり、個人が個人の意識から、自身の苦痛に対処しようとする試みがさらなる苦痛を呼び込んでいることを書いてきた。また、苦痛は見ることで平和と幸福に変わることも書いてきた。目のテクニックであり、道の初心者がはじめに習得する課題である。

先に進む前に一つ注釈を入れる必要性がある。ここで初心者と書くとき、個人的に反応しないで頂きたい。それは文字通りであり、事実に対する謙虚さを共に確認するためと、自身の段階を明確にし、批判や不愉快、劣等感といった個人の反応に引きつけられず、ありのままを知的に汲み取って頂くための意図でしかない。なぜなら、苦痛を感じる段階というものは、まだ意識が個人だからであり、個人の反応に容易に学習を妨害されるからである。

苦痛の原因である個人の超越が一つの課題でありうるとき、何かを読む際、あるいは聞く際、自身の反応への警戒と注視は強調されるべき前提である。個人の反応に気づいており、邪魔をされず、純粋な態度で物事に関わりを持つときのみ、エネルギーである知恵は時空を超越してその人の澄んだマインドに降下することができる。

ここで言う苦痛は心理的な苦痛である。初期段階において、目がまだ開いていないため、知性を通じて心理、つまり心の理(ことわり)である自我の構造に取り組むことになる。これは個人として行われるため、学習で成果を得たときにアストラル的な喜びや感動を覚えたり、しばしば取り組み方に間違いがあり、抵抗となって苦痛が激しさを増すこともある。なぜなら、苦痛の原因である個人が、個人の結果である苦痛をなくしたいと強く切望しているからである。この言い回しに多くの理解の種子が含まれている。

この種の学習をあらかた終え、個人の問題を個人が解決するという矛盾を理解できるようになったとき、瞑想の重要性が彼において永遠に確立される。もはや個人であがくことを彼はやめる。個人の知性が役に立たないどころか、個人をより強化していることに気づいたからである。この個人性に対する嫌悪を伴う否定は、次の認識を個人にもたらしこう言わしめる。

「わたしは個人であり続ける必要性の経験を理解によって卒業した。わたしは個人ではないが、真のわたしを個人ゆえに知らない。意識は個人のままだが、それを超えた意識があることを知っている。低位我である個人と、高位我である魂という、二重性の感覚に進み、意識の覇権をかけた双方の闘いの激化がはじまりつつある。容赦なく、前途多難な道だが、どのような犠牲を払ってでも、わたしという個人は魂によって死ぬことを選択する」

このようにして弟子は瞑想に没頭する時期を迎える。この段階の瞑想は、まだ個人である弟子が魂に協力する作業、魂の働きかけを妨害している個人のフォースを認識できるようになり、アストラル体の統御、つづいてメンタル体の統御をクリアすることで魂との通路、つまりアンターカラナの一部を築き、第三イニシエーションで頂点をきわめる個人と魂の合一による変容を経験するまで続く。

以上から明確に、個人を制圧するのは魂である。瞑想は少しずつ意識を純化し、これまで同一化してきた個人の動きを見ることができるよう魂が個人に教える。これは、より意識が魂に傾いており、これまで自分のものと感じてきた個人の感情や想念から離れることができるようになることを意味している。これが魂意識による隔離である。個人の意識から隔離されるため、弟子は保護されるのである。したがって、個人の問題から影響を受けることがなくなる。彼がこの意識を放棄しない限り、二度と人生の苦しみに打ちひしがれることもなければ、自殺することもない。

ただし、周期の法則のもと、何度も放棄することになるだろう。ふたたび闇の中をさまよい、知っていたことを忘れ、出来たことが出来なくなり、見えたものが見えなくなる。これはすべて弟子に責任がある。自身の弱点という裂け目に対する軽視を意味しており、人間の特徴である「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の典型である。彼は比較的個人を超越し、いくらか魂の力を使用でき、保護と隔離という高みの意識を保持できると錯覚して個人的に傲慢になったのである。

しかし、物質界とアストラル界の引力は強力であり、秘教的な格言で「阿羅漢でも堕ちうる」という言葉があるように、示している内容は第四イニシエーションまでは何らかの個人的な裂け目がありうるということである。ただし実際に堕落が多いのは、アストラル体の統御と関係する第二イニシエーション前後までである。それ以降はあっても軽微であり修正もはやい。

修正の保護が自動的に機能しない段階で、個人に霊的な思い違いを許してはならない。メンタル界の高みに隔離されていた意識を、アストラル界にまた落とし、愛である保護の境地から、悪である地獄の悶絶へとあえて沈みこまぬよう、またたとえ堕落したとしても、なるだけはやく復帰できるよう、個人の引力に隷従させられていることを知っていながらも、魂への忠誠を思い出し、どうにもならない状況にあってなお魂に救済の祈りを捧げるべきである。目を向けられた魂がそれを無視することはない。反応は即時に感じられるだろう。

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