苦痛

苦痛の克服

(※以下、性質上、簡潔かつ平易に述べる必要があり、ある種の語弊を含まざるをえない)

苦痛という感覚はよく知られているが、
苦痛が解放への扉になりうることはあまり知られていない。

ここでの解放の意味は次の二つである。

1. 苦痛という感覚を味わうことがなくなる状態。苦痛を即時に幸福へ変性しうる状態。
2. 悟りや解脱、真我の実現など、漠然とした無意味な用語と知識で扱われている表現不能の状態。

いずれであれ、その意味と意義を教えてくれるのは、最初はある種の本かもしれないし、あらゆる段階の人間の師であるかもしれず、最も正確なのは瞑想から直接に体験を得た場合である。この解放の意味と意義が比較的正しく理解され、生の主目的とならざるをえなくなっている段階が、苦痛からの自由を求める場合、いわば当面の目標になる。

主目的になる、と言わず、主目的にならざるをえない、といった。
前者は初期段階であり、後者はより進んだ段階である。
前者は利己的であり、後者は利己的なものを拒絶している段階である。
前者は自我の拡大行為であり、後者は自我を死滅に至らしむる何かを大なり小なり知っており、その何かと大なり小なり共に在ることが許されている段階である。

苦痛が扉となりうるケースは二種類ある。

一つは、極度の苦痛が引き金となって、すべてのものへの諦念と、それに伴う放棄が生じた場合。これは意図して発生させうるものではなく、偶然そうなった、という類いのものである。

もう一つは、瞑想によって情緒感覚の統御に成功した場合である。苦痛はただ見るだけで幸福へと移行されるようになる。のちに意識せずとも自動的なものとなり、やがて苦痛という感覚そのものがなくなる。

我々が比較的容易に達成できるのは後者である。ただし、瞑想の定義の正確さと、行う者の純粋さが大なり小なり要求される。

瞑想を教える者は瞑想それ自体である。

初期段階において、苦痛から逃れたいという逃避願望が動機となるかもしれないが、やがて苦痛が恐れるものではないという経験にいたり、そのとき、苦痛はそれを拒絶するときのみ苦痛であり、それを受け入れるときには幸福であるという技術を習得する。

受け入れる、というのは行為ではない。受け入れようとする行為は一人称の、つまり身体としての「私」としての、利己的な、獲得のためのものであり、このあやまった方向感覚があるうちは、苦痛をあるがままに見ることはできない。

苦痛をあるがままに見ることは、はじめは瞑想中に達成される。のちに、どのようなときでも苦痛とは無縁になり、かつてのように苦痛を味わうことが不可能になる。ここでは、苦痛を終焉に導く者が自分ではないことを自覚しておく必要がある。

苦痛によって、この場合、人間は解放へと進んだのであり、苦痛から自由になったということは、欲望からも自由になったということである。ただし完全に自由になるためには、個人というものの喪失が、真の自己によって完全に行使された場合のみである。この段階は冒頭で述べた2の状態へ導く。

この段階は、情緒感覚の統御に加えて、瞑想の主目的である思考の統御が基本条件となる。ただし、苦痛という感覚にかぎって言うならば、この段階にいたるはるか前に容易に克服することができることを再び強調しておく。最初は瞑想中にのみ、苦痛を幸福へと移行させうるが、瞑想の進度に比例して、日常活動のなかでも保護されるようになり、最終的には完全に苦痛は終焉する。




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コメント

  • コメント (1)

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    • 高瀬
    • 2018年 11月 12日

    今日ランキングをみてみたら、ブログ主様が一位になっていて、とても嬉しく思いました。主様がランキングに登録、もしくはブログをスタートされたであろう初期の頃にたまたま拝見し、文章や内容の難しさに何度も読み返したことを思い出しました。恐らく主様は1位になりたいからランキングに登録されたのではなく、少しでも多くの方が拝見し、苦痛から解放されるようヒントをくださっているのではないかなと勝手に思っています。
    主様のご投稿に度々出てくる【瞑想】の二文字。瞑想に関する沢山の著書が世に出ている中で、何を参考にすれば良いのか、わかりませんが、安全に正しく行うことができるよう気をつけながら、毎日五分でも練習しようと思います。

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