質問

苦痛はないが体がぐったりする

コメントから一部編集抜粋。

私は10年以上瞑想を続けているので、ブログの内容で私に当てはまるところや、分かるところが多いです。いつもありがとうございます。ただ不勉強でまだ分からないところも多いのです。私は(女性です)感情の部分には対応できるはずなのですが、個人的に良くないことがあると未だにぐったりしてしまう時があります。苦痛は私にはないので不思議なのです。体の状態だけを言うと、とても重くなってぐったりして多めに眠ってしまいます。瞑想はそういう日はできません。私の心も感情も大丈夫で苦しくないのですが、体はそうなるのです。これは私にまだ気づけていない深い心理的なところがあるからだと思っています。しかしそれが何なのか分かりません。

そのとき、あなたが同一化しているのは何でしょうか。肉体のだるさ、それに対する知的な疑念。しかし、いずれも個人的なものではないでしょうか。肉体のだるさの意味を理解しないといけないという気持ちは分かりますが、この疑念は言い換えれば好奇心ではないでしょうか。個人は、自分の霊的な達成具合の矜持のもとに、その状態を非難の目で見るのです。

「わたしはアストラル性質を除去しているはずなのに、嫌なことがあると身体が反応してしまう。苦痛はないが本当は精神的な負担を看過しているのだろうか。わたしに見えてない心理的盲点は何か、どこがわたしの霊的欠陥なのか。わたしはこれを見抜かなければならない」

こういう個人の罠に付き合ってはなりません。これを気にしている人が重要であると主張しているだけです。なぜなら、じじつ、こういう疑念が重要であった時期をわたしたちは経験してきているからです。気づかないかぎり習慣として根付いたままになります。肝要なのは、瞑想するときのように、あなた自身とともにただ在ることです。この手の、もっともらしい疑念という想念はどこまでいっても個人の玩具です。あなたは嫌なことがある。身体が反応し疲労の症状を見せる。物事を離れて見る術は身につけているため、アストラル的な苦痛からは自由なのになぜ、と戸惑う。

問いを投げかけるのであれば、「戸惑っているのは誰か」というのが霊的には正常な疑念だと思います。個人の疑念ではなく、本来のあなたであるものに目の向きを変えるのです。個人の疑問の答えは、あなたそのものである存在のなかで知ることになりますが、もはやその状態のなかでは関係のないことです。二重性におけるあなたの状態はいまどのようなものですか。個人は狡猾ですので、霊的にもっともらしい疑念を使って、今度は自我を養おうとしてきます。あくまでも、あなたは魂、真我、存在とともにただ在るほうを選び抜くことが必要とされています。そこで引き留められることを許してはなりません。

「実際、わたしの身体がぐったりして重く、過眠にならざるをえない状況のときは瞑想もならず、ただ共に在るということが難しいのだが、この現実に対してはどうなのだろうか」

こういう疑問を個人が次は突いてくるかもしれません。いずれにせよ、あなたは疲れ果て眠ります。しかし起きます。この問題もまた当然ながらエネルギーの問題なのですが、それは気分や気力としてこの場合感じられ、睡眠によって多少元気になります。このとき、再び同じ個人の疑念に付き合わないということです。おそらくあなたの段階においてはメンタル体の統御が問題であり、光線構造にもよるので一概には言えませんが、オカルト的に第二ではなく第三が課題になってくるでしょうから、想念を克服しないといけません。

やがて、あなたのアストラル的な無痛の状態が、今度は想念の無統御に対する苦痛へと変化するだろうと思います。ちょうど、アストラル体を統御していない状態が苦痛だった時期があるように、より精妙な苦痛が、今度はメンタル体が対象となり、想念の罠との対峙の茨を変容の山頂へ向けて歩むことになるはずです。実際に試してみてください。もっともらしい疑念を無視して、あなたもご存じであろう、あの存在と共にただ在ってください。幸福とともに氷塊するでしょう。

コメント

  • コメント (1)

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    • erico
    • 2019年 3月 05日

    まずは詳しく教えて頂いて感謝します。心からお礼の気持ちでいっぱいです。この発想というか、裏返せば自我の好奇心・養分だったという考え方・・たぶん私だけでは長い間気づけなかったと思います。私にとっては衝撃になりました。完全にその通りだと分かったとき、そのとき分かったことで、しばらく時間が止まったように<存在>に集中してしまいました。私の中では<知>が主体になっていて、それが罠だったのですね・・。二重性の私の感じ方を表すなら【魂≒知→情・肉】みたいに一人で思い込んでいたのですが、【魂<知→情・肉】に本当はなっていて、すごく気づくことの難しい罠に躓いていたことが分かりました。本当に驚きましたが、驚いている自分にすぐ気づくこともできました。本当に言われる通りに<知>から来る疑念を無視して<存在>に集中することで、あのような疑念が<存在>とは相容れないのだという<氷塊>の体験を幸福の中で受け取りました。色んなことがその中で分かりました。<同一化>せずにすむものが新しく分かりました。最初は文中にあった個人=自我の狡猾さを恐ろしく感じました。どれだけ気を引き締めないといけない落とし穴の多い道なんだろうと思って、自分に対して怖くなったのです。今後は畏怖の念を忘れず道の怖さを謙虚に教訓として受け止めて、<存在>を拠り所に<明敏>であるよう心がけます。今はもう疑問はないです。罠と方向性の認知が私の中でしっかりとしたものになりました。最後に重ねてお礼を言います。ありがとうございました< (_ _)>

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