教育

虚しき知性

苦しみの根本原因は、外的な問題ではなく、永遠の実在である自己と、生きては死ぬだけの個人とを同一化し、その人間を「わたし」と思い込んでいる知的な怠惰にある。もし身体と同一化したまま、彼あるいは彼女として生きるなら、人生は辛い。悲しく、苦しく、救いがない。そのため、物質社会の楽しみや喜び、社会的成功や宗教、劣等感が生み出す夢や優越感の源となりうる何かに人々が束の間の救いを求めている。これは、比較と競争の終わりなき闘いであり、人間と人間の衝突の日々であり、苦痛にしか行き着かない。専門的に、エネルギーの誤用だからである。知性が高いほど、より容易にこの仕組みの愚かしさに気づくかもしれないが、それは、内的な理解が人間に事実の提示を行い、その居場所の誤りを苦痛を通して教えるからである。

ただし、知性は学問と関係がない。千の知識を持つより一の知恵を持つほうが知的である。知識というものは歪曲しており、その人に色付けられており、したがって問題に直面したときの反応も解決案も十人十色である。知恵はすべての問題に対し唯一の対峙しか行わず、瞬時にそれを無効化させる。それは行動によってではなく、内的な在り方によってである。知性を知識と結びつけてはならない。

人間は、人々と分離しており、個我意識であり、この世界で何とかしようと考える。現在の教育は知恵ではなく知識を教えることで将来の問題に対処させる、あるいは将来に希望を持たせる試みであり、それは社会ないしは人生という恐怖からいかに自身を守るかという不安を前提としている。父親は子供に言うのである。勉強しないと大人になってから大変だと。しかし父親本人が人生に対して大変な状況に周期的に陥り、そのたび苦痛に打ちひしがれ、おのれの無力をたびたび認めるのである。誇らしい父親の学歴は現実問題に対処できる類いの学問ではなかった。

学問は知恵を教えるためのものである。真に知恵の何たるかを教えるのは人間においては魂であるが、いわば魂の言語に通じるまでは、概念としての一般的な言語を媒介にするより他にない。そのためには新たな観念と、その観念のための新語が必要であり、その観念を仮定として受け入れるだけの素養が人間に求められる。やがて、この種の学問が広く伝わるようになるとき、それは仮定ではなく事実であるものとして学習の取り組みは容易になるだろう。

たとえば、「あなたは魂であり、身体ではない」と言われたとき、人間の個我意識はそれをどう解釈すればよいのか。まず、身体と自己同一化を行うということは衝突であり、この摩擦が苦痛を生み出している。もっと言えば、諸体から無統御に拡散しつづけるフォースに対する、誤った自己同一化の結果としての自我の抵抗というかたちのフォース同士の衝突が苦痛の原因である。したがって、この内紛とも呼びうる喜劇の無知から目を醒ますため、人間を奴隷化させている、現行の忙しない内的な動きを見て、自我の構造に習熟し、人間の発するすべてのフォースを統御し、より精妙な意識に参入し、身体としての自己を超越し、苦しみから自由になり、静かで、平和で、永遠の幸せの源であり、あなたであるものを思い出しなさいということである。

魂が人間に知恵を教えるとき、すべての衝突がやむだろう。何かを獲得したからではなく、すべてを放棄したから視界の霧が晴れたのである。諸体のフォースを統御し、低位のエレメンタルを死滅させてきたから内なる宝物庫が開かれたのである。その意識状態はサマディのことのみを言っているのではない。実際のところ、サマディはいくつもの段階がある。最終的なサマディだけが強調されているが、そのような観念に興味を持たず、知恵とともにただ在り続けるべきである。思考も知識もただの罠でしかなく、容易に引きつけられ同一化しないよう、行動している自分という意識から、「自分」を条件づけるフォースを観察する目へと移行しなければならない。ただし、この必要性を感じるのは、ながきにわたり極度の苦痛を味わってきた、老いた魂のみ。

コメント

  • コメント (2)

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    • 高瀬
    • 2019年 1月 30日

    このブログを読むと
    考え方が変わります。

    外的な世界で、ある人が
    こう言っているのを読みました。

    〝知識は最強の武器〟
    〝全ては知識!〟だと。

    物知りで知的な著者を
    人々は天才と言います。

    たしかに
    多くのことを知っていると
    自分自身の枝が増え
    周りも彼を大きな存在と
    見る??!と思います。

    だけど知恵ががないと
    いざという時に実にはならない。

    立派な果実は実らないですよね。

    本当にいつも勉強になります。

    知識は勉強したら身につきますが
    知恵は、、、難しい😭

      • Author
      • 2019年 1月 30日

      知識が全てであり武器であるという解釈は、彼においては一つの段階であり、純粋に個人の成功を達成するための生涯を送る人の言葉です。天才は、知識とは関係がなく、知性を介すことのない直観とつながる経路を築いている人です。やがてこの、知るべきことを知ることのできる全知の普遍マインドのことを、人々は天才と呼ばず、知性と呼ぶようになるでしょう。現在は、知性は鍛えられた低位マインドのことを指しており、すべての知識が個人の色を帯びています。そして、それはどこまでいっても観念であり、移ろいやすい私的な想念形態です。

      知恵は知識を使って到達できません。辞書に書いてある知恵は単に知識の応用を指しています。しかし真の知恵は、知識のように獲得するものではなく、もともと人間に備わっています。そして、物質界の行動とは関係がありません。知恵は原因の世界に関係しており、知識は結果の世界と関係しています。マインドや情緒のフォースが、本来あるこの知恵を覆い隠しています。そのため、瞑想で魂に親炙するにしたがい存在そのものが知恵だという認識に至ります。知恵は勉強して獲得するのではなく、知恵を覆い隠すものを知り否定する能力と、その誤った傾向を卒業できるに足る経験の豊かさに依存しています。

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