存在

血のヴィジョン

空想上の存在を人は「自分」と見なしているが、思考が織りなすその大錯覚が去り、行為しているのが偉大なる方であることを知るならば、「彼」において意識は引き上げられ、常に「彼」と共に在るという臨在意識が確立される。これは、我々が「他人」と見なしてきた人たちにおいても同様であり、動かしているのは同じ源である。異なるのは外的な形態や表現だけで、その根底とハートでつながるならば、一切は「私」である。実際は「私」という感覚ではなく、言語の及ばない無人称の限定なき主観意識である。この状態が愛である。したがって愛とは、誰かが誰かに対して抱く情緒や欲望ではなく、一体感に由来する独特の満たされた意識状態のことを言っている。この愛意識に座すとき、あらゆる外的な表現の内や背後(適切な言語はない)にアクセスできるようになり、完全に分離感は消える。

この拡大意識は、サマーディーや悟りによって得られるものであると主張する人がいるが、必ずしもそうは思わない。それは、結跏趺坐を組むような形式的な瞑想を瞑想と思っているがゆえ、そのように想像するのだろうが、行為者の感覚なしに、つまり(臨在として知覚される)偉大なる存在に身体を明け渡したならば、生は常に瞑想であり、その正しい在り方に依拠する限り、いつでも高位の啓示の機会は訪れうるのである。昔ある弟子は、酔っ払っている最中にこの普遍的な意識(啓示)に到達している。彼においては酔いの醒めた翌日においてもこの意識状態は続いた。書物の知識に限定されるならば、このような話は信じられないだろう。

啓示の試練

高次の神聖な啓示、つまり意識拡大に値するかどうか、その機会とテストは存在する。認識できる者とできない者がおり、啓示が一日に一回の者もおれば一生に一度の者もいるだろう。それは道に対する真剣さの問題でしかない。啓示の道を辿る弟子はこのことを知っておく必要がある。その心構えで日々を、また一瞬一瞬を生きる必要がある。

この道は険しく厳しい。おそらく流血の感覚が伴う。つまり犠牲である。何の犠牲であろうか。「私」であり、「私」が手放しきれない何かであり、それは「私」が引き寄せられる引力の源との断絶である。我々は自信たっぷりに言うかもしれない。「どのような試練も通過してみせる」と。実際の試験は、学校のテストと違って、身震いする難易度である。それをここでは流血と表現した。その高位の象徴として、イエスの物語に見られる磔刑がある。彼のような存在でさえ、「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言わざるをえなかった。言いたいのは、難しいということである。

試練を通過した弟子は、意識拡大と同時に次の事も知るだろう。我々の兄者方、前方へおられる偉大な存在方が通られた道が、ことごとく血で染められているということに。彼らもまた特別な人間ではなかったのである。我々と同じく小さな人間だったが、我々には到底想像できない犠牲と苦悩を、自分のためではなく、唯一である御方のために味わい、切り刻まれる強烈な痛みの中で通過されたのである。この文章には深遠とも呼びうるヒントがあるように見える。それは我々が試練に直面したときに思い出すことで力を引き出しうるもの、高次の助力に自動的に働きかけることになる姿勢に関するヒントである。この理解が意志によって決然と行使され、おびただしい血を撒き散らしながら試練を通過したとき、弟子は犠牲についての新たなる啓示を得るだろう。それは以前のように苦痛めいた概念ではなくなるものになるだろう。

この記事では、行為者の不在とそれに伴う臨在意識の確立が普遍意識に導くことを先に述べ、それに試練と犠牲と啓示というオカルト的な概念を結びつけた。そして最後の重要な文章を秘密めいた描写で示唆した。これらは全て連動しており、我々の次なる試練が正しく成就しますようにとの強い祈りが込められている。

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