質問

見るという意味が分からない

以下、質問の骨子。

苦痛を見るという意味が分からない。苦痛がひどいとき、自分には友人・家族の慰めや、趣味への没頭、他の何かで鬱憤を吐き出すことで対処するしかできないし、そのほうが楽。目を逸らしてることになるのだろうが、見るという意味が分からない状況。見る世界は何か普通の人には見えない世界の話なのか、漠然としていて分からない。

鬱憤という言葉を使われたことで次のことをまず意味している。つまり、内的に適切に処理されないでいるフォースの蓄積と騒擾の渦。これによるフォース同士の衝突。

エネルギーを触知する器官を発達させ、フォースとの違いを識別し、それらに適切な流れを提供すべく、離れて扱うことができるようになるまでには、見るという意味は分からない。なぜなら、離れておらず同一化しているため、結果としてそれらのフォースの総体があなたである、という基本的な事実に気づくことができないためである。したがって、魂を幻惑し、生命を閉じ込めている物質が、どれだけやっかいな軛であるかは個人意識において明らかである。

繰り返して言うが、同一化の軛から自由になるためには、諸体の浄化が前提であり、この征服ゆえに、新たなる静謐の保護意識から、非人格に、暴走しているフォースを離れて見ることができる。つまるところ、学習し、瞑想に親炙し、内側からただ見ている存在と出会い、驚き、偉大さに己れを無力とし、愛としか言いあらわしようのないその影響範囲に少しでも近づかねばならない。

そこで誤解がある点について述べるならば、想像されているような神秘的な世界はない。(純粋にではないが)個人意識のまま、秘教徒の定義であるところの第二イニシエーション前にこのレベルの技術は使用可能になる。その代わり、家族や友人とこれまで通りに接することもできなくなるかもしれない。あなたが人格を喪失していくからである。これは周囲と個人に劇的に環境の変化をもたらす、本物が試される一つの試練を提供するだろう。

慰めはなくなり、あなたへの攻撃、感情あらわな不快の念が差し向けられ、「変な方向に行った人」という一般社会の目で見られ、人格の変異を恐れられるためである。このとき、ほとんどの弟子がそうしなくてはならなかったように、多くの離別が生じる傾向にある。というのも、家族であれ、弟子は理解してもらおうという気持ちも、攻撃する個人を個人として見ることもないからである。個人を動かしているフォースなら見るだろう。自らの意識がかき乱されることはなく、依然として愛と平和、静けさに集中することを選択するため、話すことすら多くの弟子がやめるのである。

何事もそうだが、ある事柄が死活問題にならない限り、友人と遊んだり、物質性に逃避することが「楽」という状況は致し方ない。このような道に入っている弟子たちは、物質性の何たるかを長きにわたり経験してきた少数の古い魂であり、彼らの存在は相対的に高位であるものの、彼らの霊的集中は決して努力という抵抗ではなく、向こうからの強制とそれに対する自我の抵抗から始まり、あらゆる知的・感覚的な検証の結果、感情や知性が限定の壁である事実に直面し、(魂の影響力の行使の苛烈さによって)自我と呼ばれるものとの同一化に苦しみを感じるあまり、死活問題になっているだけである。この結果、瞑想するしかなくなっているのである。彼らの人生はただ合一に捧げられる。これが本来のヨギである。

すべての人は、何らかの段階にあり、その意識レベルにおける当面の課題がある。それが何であるか、また自分がどの位置にいるのかを見極めるのも、その個人の問題であり、皆がそうであるように、暗闇のなか、手探りで、自らの霊的な良心を頼りに、「高位の人」という比較的無意味だが個人にはそう見える存在の言うことを真に受けることなく、現時点での自身における真偽を感情を抜きに見極め、啓発的な部分は糧とし、当面の課題に打ち込むことができるだけである。

最後に、あなたが苦痛から逃れたいというとき、それを言っているのは個人であることを忘れてはならない。そして個人は一生、苦痛から逃れられない。

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