非人格

非人格の道での困惑

人格とは、無意識に条件づける諸フォースの総体としての一形態である。クリシュナムルティが「思考者は思考」というとき、この文脈において明らかである。この人格がもたらす言動や思考に対し、平均的な人々の反応は、「わたしの言動」「わたしの考え」という解釈である。これ自体が抵抗である。弟子の場合、「わたしの」と冠のつくすべての反応に苦痛を感じる。なぜなら、それはフォース同士の衝突だからである。したがって、無意識の反応という眠りはなく、鋭敏な気づきが、これまで真の自己を支配してきた諸フォースを支配するのである。ただし、この気づきは人間の知性によるものではなく、エーテル的な感覚による知覚である。この知覚が、フォースの衝突に正しい流れを提供し、すべては距離を置いて見られるようになる。これが、いわゆる「聖なる無関心」という意識状態をもたらす。「それらとは関係がない」という態度であり、意識は真我である魂へと集中される。このようなときのみ、直観との通路は確立され、知らないものは天にある書物庫から自由に知識を引き出すことができる。

このような意識状態へ一歩一歩足を進める弟子にあって、人格から非人格への道は、初期段階において彼の周りの人々を困惑させるだけでなく、彼をも困惑させるだろう。簡単な例を挙げてみよう。弟子が子供の頃から可愛がってきた犬がいるとする。彼はとつぜん、犬に興味をなくす自分に戸惑うだろう。これまでのような情緒的な愛着がなくなり、単なる形態として見られるようになる。犬のほうは分からない。懐いてじゃれ合ってきても、弟子は犬の外観や形態よりも、その背後の生命や、形態を条件づけるフォースに関心を持っていることを同時に感覚として知ることになる。このように、あらゆる人間的な営みとも別れを告げなければならないことに弟子は気づくのである。

人間に対しても同様である。弟子は第二イニシエーションの道で個人的な感情に支配される要素を死滅させてきたため、周囲の人間との関わり方を見直すようになっている。好き嫌いや、あらゆる情緒的な感覚なしに個人と純粋に接触する。このとき、対象の個人が家族であったり、親しかった人間である場合、昔と同様に個人として関係を持ちつづけることが不可能であることを知り、自身の困惑と、彼らの反応に対する一種の憐れみを覚える。

彼らと「人間ごっこ」をするために、一時的に波動を落とし、眠りにつき、以前の関係をつなぎ止めるべきなのであろうか。一家の長である場合、自らの霊性のために家族が離散するのを平然と自分だけ霊的な保護の高みから見物すべきなのであろうか。このような困惑の揺さぶりと直面するのである。

もし弟子の運命が魂意識への没頭にあるならば、彼は一家の離散をもいとわず、社会的な義務すら放棄し、ひたすら瞑想と真我に没頭しつづけるだろう。ただし、通常の弟子は、自身の波動を落とさず、注意深くおのれを見守りながら、人々と関与し、一家の長として家族をとりまとめ、社会的な義務を果たしつづける強さを獲得する道を選ぶだろう。非人格への道はここで大いに揺さぶられるが、彼はその弱点におのれの修復の余地を見い出すだけであり、あちらこちらから飛んでくる非難や悪しき評判という幻惑には魂として毅然と対処し、人々の世界のなかで物質ではなく霊性に忠誠を誓い、非人格への道を歩みつづけるだろう。

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